この歌を読んだとき、シュールレアリスムの画家、ジョルジュ・デ・キリコの「街の神秘と憂欝」という絵が浮かんだ。
キリコの絵は説明的なものは特に描かれていないにも関わらず、意識の底に不安なものを感じる。
同様に、この歌には「炎天」「自転車」「文化会館」が登場するが、
すべて見慣れた物にも関わらず心の奥にある不安感を掻き立てられる。
この歌の中では文化会館の白さだけが際立ち、他の光景は影の中で見えない。
自由に色んな場所に連れて行ってくれた自転車の不在と教育や権威の象徴である白い文化会館との対比が鮮やかで、
単に自転車を盗まれた以上の不安が伝わってくる。
うっかりと扉閉ざせばみずからの暗い武器庫に閉じ込められる
「武器庫」という自己描写が容赦がなくて驚いた。「倉庫」ではないのだ。武器しかないのだ。
自分を守るための手段であった武器が、反転して自らを傷つける道具になってしまう。そんな危うい内面世界を感じた。
他、この歌も同様に胸がきりきりした。
飛び降りるわけではなくてかなしみを見下ろすために屋上へゆく
制服少女三十景より
2019年1月15日
22.ひとり寝の夜にふれては確かめる 過去の傷あと消えてはないこと 瑞木萠傷に触れるときって、恋をしているときみたいに、自分を守るための麻薬物質とか出ているのではないだろうか?と時々思う。
かさぶたとか、ついつい触ったり剥がしてみたくなってしまいませんか。
この歌にはとても共感した。自分もひとり寝の時など、意識的に過去の傷を思い出しているときがある。
私は基本的に鈍いので傷付けられた時には気が付かず、数日、時には数年経って、布団の中で「あっ!あれってそういうことだったん
だ!」っと思って改めて傷付くことがある。いや、「気が付かず」というよりは、当時はよくわからないけど傷付いて、後になって意
味が分かってもう一度傷付くという感じだろうか。
過去の自分の鈍さを呪いつつも、それが分かって少し人間的に成長したのだろうか?も慰めてみたり。
いや、それよりもやっぱり傷にふれること自体がすこし甘美なのだ。
心臓に真鍮の鈴を持っていてさみしくなると高く、りん、と鳴る
真鍮の鈴って、貴族の食卓で召使を呼ぶために鳴らすようなあれだろうか。高く澄んでいて良く響く。
召使ではないけれど、だれかに来てほしいという思いが痛い。そしてそれは実際周りにも聞こえてしまうのではないかとはっする。
うたの日お題「自慰」より