言葉って「何を言ったか」より「誰が言ったか」「どういう状況で言ったか」で伝わるものが左右される気がする。
掲歌の「誰だって色々あるよ」は、「どんまい」っていうくらいのニュアンスでわりとよく使われると思う。
ただ、一見励ましのように思えるこの言葉に潜んでいる投げやりな感情の棘をこの時主体は敏感に感じ取ってしまったの
ではないか。「それを言ってはお終いじゃないの」と。
辛さというのは個人的なもので、一見同じ状況のように見えてもそれぞれ感じる苦しさの度合いは違うから本当には分かり合えな
い。個人的な辛さを相手にすべて理解してもらおうなんて主体も思っていないだろう、大人だし、自分でなんとかするはずだ。
ただ、簡単に「色々ある」と括られて箱の中にぽいと入れられたことに傷ついて心を閉ざしてしまったのではないだろうか。
そんな断絶が浮かび上がってくる。自分がいっぱいいっぱいだと安易にこの言葉を使ってしまいそうで、どきっとする歌だった。
さて、本気子さんは女神のように母性あふれた歌を詠まれるときもあれば、阿修羅のようにどろっとした歌を詠まれるときもある。
それは矛盾ではなく、人間としての振れ幅が大きいということなのだと思う。
ちなみに本気子さんは家族のこともよく歌にされるのだが、私はお祖母さんの出てくる歌がとても好きだ。
どちらも大らかで、太陽と土の匂いがする。それは本気子さんの歌の大らかさにもつながっているのだと思う。
ニワトリの大合唱で目覚めたら祖母としぼった牛乳を飲む
「あの木ごと全部あんたのもんじゃが」と食べ放題の祖母の無花果
うたの日のお題「色々」より
この歌はいい。一読してすぐ「いい」と思うのは愛唱歌の証だ。「たらちね」の例句として教科書に載ってもいいとさえ思う。
良い良いと言っているだけではこのページを始めた理由がなくなってしまうので無謀にもこの歌のすごさを分析してみたい。
「たらちね」とは母にかかる枕詞で「乳の満ち足りた・乳を垂らす(未詳)」の意。枕詞には他にも「ちはやぶる」神、「ひさかた
の」光、「ぬばたまの」黒などがあり、ある言葉を引き出すためにその言葉の前に置かれる修飾語である。
枕詞が用いられるのは神聖なものに対してであり、そのものへ畏れを持ってワンクッション置くのだという。
国語の教師には「いいかー!たらちねと言えばそのあと必ず母が来るぞーテスト出るぞー」なんて言われた気もする。
それくらい現代の我々にとっても「たらちね・母」はセットなのである。
さてこの歌では下の句で「あなたを呼べる言葉がほしい」とある。ここが古の世界から一気に現代に引き戻されるようで面白い。
この「あなた」は恋人であろうか、きっと主体にとって枕詞を使いたくなるような神聖な存在なのかもしれない。
調べてみたところ恋人には「玉梓の」妹という枕詞があるのだが、主体がほしいと思っているのはその人限定の素敵な枕詞なのだ。
呼んでいるのは誰にでも読み替え可能な「恋人」ではなく、唯一無二の「あなた」なのだから。
試しに枕詞を変えてみた。
玉梓と記せば妹が来るようにあなたを呼べる言葉がほしい
としてみたところ、しっくりこない。「玉梓の」は「たらちねの」ほど身近な用語ではないからだろうか。
ひさかたと記せば光が来るようにあなたを呼べる言葉が欲しい
ではどうだろう。元歌に比べて情緒が足りない。
やはりこの歌の肝は恋人への歌の裏に母恋いの歌が隠されているということなのかもしれない。
ちなみに作者はツイッター短歌界隈ではなぜか?「おっぱいの人」で有名なのだが、これももしかして作者を呼ぶための枕詞なのでは
ないかと思った。(アッ、最後の一文完全に蛇足かも)
うたらば七月号より