現代のファンタジーだと思った。
「社会」という固い言葉で始まった歌が結句の「月までゆくものがたり」でSFに変わり読者はあれっと思う仕組みだ。
月はルナティック(狂気の・精神障害の・常軌を逸した)という使われ方もあったように、人の心を狂わせる存在とされていた。
また、人離れした美しさを持ったかぐや姫も月の住人であった。月は社会に馴染めない人達との関係が深いようだ。
この歌の「浮く」もその場にうまく溶け込めない状況の比喩であり実際に浮いているわけではないだろう。
しかしこの歌の途中からそれは文字通り実際に浮いているほうにすり替えられていて、それが不思議な読後感につながっている。
それにしても「少しづつ」なので、月への到達まではどのくらいかかるのだろうか。人間が徒歩で月まで行くのに11年かかると
聞いたことがある。すると一生くらいかかるのかも。
この歌は僕でも君でもなく「僕たち」となっているところが温かいと思った。みんな程度の差こそあれどこか社会から浮いていて、
ふわふわと月に近づいているのだ。もしかしたら人よりも浮いていたほうが早くたどり着くことができるのかも。
例えば地動説を最初に唱えた人みたいに。
ここまで書いて、この歌の「月までゆくものがたり」は元ネタがあるのかもしれないと思い至った。
シラノ・ド・ベルジュラックの月世界旅行記は未読だが、読んでみたいと思った。
背水さんの歌の魅力は少年のような老人のようなアンビバレンス。頭では分かっていてもどうしても四十代男性な気がしちゃうんだよ
なあ。特に最後の歌なんてさあ。
エロ漫画家がエロ漫画家になる前の絵が晒されて 海の絵だつた
好きなひとに好きだつたんだと呟けばチェイサーひとつ差し出されけり
美味いもの食べて神社を参拝し湯船に浸かりただ海を見る
うたの日のお題「浮」より
確かに「前向き」って良いイメージがあって、会社でも恋でもなんでもとりあえず前を向けと言われる。
そのようにして人類は進歩してきたのかもしれないけれど、掲句で言っているように方向が分かっている人なんて実はいないのだ。
大抵の人はそのことにうすうす気付いてはいるんだけど、それだと進めずに苦しくなるから気付かない振りをして、あたかも前がある
ように生きている。この歌はそれに敢えてNOを突き付けているのだ。「その方向はあっているの?」と。
例えば、フラれてどうしようもなく凹んでいるときに軽い感じで「前を向こうよ!」っていわれても「前ってどこ?右?左?東西南北
のどこか言えるの!?」って食い下がりたくなる。これは会社でも、政治でも同じで、耳触りのいい言葉を使って人を安心させる人
や、それに流されてしまう人たちへの警告なのかもしれないと思った。
カニカマをふたつ買ったよ僕のため君を忘れぬ僕のためだよ 高橋希望
最後までこちらの歌と最初の歌のどちらを選ぶか迷ってしまった。
「君」はカニカマが好きだったのだろう。ペットを亡くされたのかもしれない。
最初に「カニカマを二つ買ったよ」とあるが、両方とも「僕のため」らしくて「えっ」となる。
君はもうここにいないのはちゃんと分かっているから安して、僕のためだから気にしないで、と「僕のため」を繰り返して語りかけ
る口調になっていて、切なさが増幅されてしまう。