けらさんは私をうたの日に誘い、短歌の世界に引き入れてくれた恩人である。ゆえに私はけらさんに足を向けて寝られない。
さて掲歌、なんてかわいい要求だろう。この歌を読んだとき、幼い少女の問いかけのようだと思った。
「私なら『ぱ』かな?『ぽ』も捨てがたい」なんて答えを考えているうちに様々な擬音語でチューリップが花開いていき、
いつの間にかチューリップの花畑の中にいる。
子供って、こういう強引で他愛もない質問が好きだ。公園にいると時々見知らぬ子供に話しかけられてそんな質問を受けることもある
が、その質問は世界の核心を突いていることがあってどきっとさせられる。
松尾芭蕉に「俳諧は三尺の童にさせよ」という言葉がある。まさにこの歌はそのようにして生まれたのではないかと思った。
つまり、子供の眼でものを見て、大人の技術で表現しているのだ。
けらさんの歌はその視座が様々なことに驚かされる。掲句のようにあどけない女の子になったかと思えば、時にクールな文学少女、
思春期の少年、ちゃきちゃきした姐さん、ニヒルなおじさん、大魔女のようなおばあ様。
しかしそのどれにも通底しているのは生き物すべてへの愛だと思う。けらさんの世界は神様みたいに多面体に光っている
他にもこんな歌を紹介したい。
とりあえずバナナ一本渡しとけ武器にならぬし食べたら甘い
もうボタン2つまでしか閉まらないカーディガン着て春、母になる
先の世は姉妹でしたね母の手を引けば童女の笑みのこぼれる
うたの日のお題「ぱぴぷぺぽ」より
2018年11月23日
14.パピコのリングの方に残ったアイスを吸っても反省はしてる 髙梅春之「いやいやそれ全然反省してないでしょう?!」って言いたくなる歌だ。主体は子供だろうか、大人としてみても面白い。
パピコは上部のリングの切って食べるアイスなのだが、リング側にも少しだけアイスが入っているときがある。
お説教の最中なのだろうか。最初、これは主体はそんなに反省してなくて、お説教の最中にいつもの癖でアイスを吸ってしまい火に油
を注いだ歌なのかと思ったが、ふと別の考えも浮かんだ。
学校から帰っておやつのパピコを食べようとした男子の後ろから母親のお説教が始まる。彼は決まり悪さにパピコの本体は食べること
ができなくて、リングのほうを吸っているのかも。素直にごめんなさいって言えない反抗期の子が浮かぶ。反省してないように見える
かもしれないけど「パピコ本体を食べないくらいには反省しているんだよ」というエクスキューズの歌なのかもしれない。
そう考えると急に主体がいじらしく思えてくる。
髙梅さんはもともとは自由律俳句の方なのだろうか。ツイッターで拝見したこの句なども面白かった。
話を聞きながら隙あらば調味したいと思っている
相手が熱心に話をしていて、主体も相槌などを打ちながら話を聞いてはいるものの、料理中だしそこまで主体にとってそこまで深刻な
内容でもなく「コショウふりたいんだけどこのタイミングで振ったら怒られるかなあ」なんてそわそわしているのだ。
「調味したい」っていう言葉がなんとなく格式ばって微笑ましい。
でもこれきっと、コショウ振ったとたんに「聞いてる?!」って怒られるパターンですね・・・
うたの日のお題「省」より